blog
2021/07/05 00:12
戦後まもないこと
日本人の女子学生が一人
敵国であったアメリカの東部ニューヨークに留学しました。
そこで彼女は結核に罹り、
医師の勧めで西の端にある
モンロビアの病院へ向かいました。
異国の地での重病患者はこの上もなく、
心細いもの。
モンロビアはニューヨークから
特急列車で5日もかかる町だった。
広大なアメリカ大陸の東の端から
西の端への特急列車で5泊の長旅は、
高熱と吐気の病人にとっては過酷なものでした。
彼女は衰弱した。
用意した食料は
3日で尽きたが
パンを買うお金はなかった。
車掌さんにジュースを頼むしか、
他に方法がありませんでした。
その車掌さんは彼女をじーっと見て、
「あんたは病気だね。どこが悪い?」と尋ね、
しばらくして、ジュースを持ってきて、
「お金はいらないよ」といって、立ち去って行きました。
あくる日の朝食のとき、
またジュースとサンドイッチを持ってきて、
「お金はいらないよ」とただ一言。
さらに車掌は どこまで行くのかを 聞いた
彼女は答えた。
『終点のロスで 降りてその後 バスで
モンロビアの病院に向かいます』
その列車は 特急なので
モンロビアでは 停車せず通過し
一気にロスまで 行くことに
なっていた。
車掌は車内放送を流した
『車内の皆さま、この列車には、病気で、
モンロビアの病院に行く日本人留学生が乗っております。
大へん苦しいらしいのです。
ロスアンゼルスからバスでモンロビアに行くのは、
彼女にとって大へんなことなのです。
で、鉄道省本部に電報を打ち、
彼女のための臨時停車の許可を乞いました。
返事はただいま着きました。
『停車せよ』と。
『モンロビア駅長への連絡及び
留学生のための担架手配は
本省がすでに行った』と・・・
ですから
皆さま、明日の第一の停車駅はロスアンゼルスではありません。
終点到着が数分おくれることもどうぞ御了承ください』
いつか留学生は泣いていた。
感動のあまりに泣いていた。
その夜、車掌さんはたくさんの重い荷物を
手早くまとめてくれ、降車口に運んでくれた。
翌朝、閑散と小さなモンロビア駅には、
駅長と、赤十字のしるしの上衣を着た人と、
担架とが出ていた。
ふり向けば、あの車掌、
そして窓と言う窓には押しあいへしあいのぞく顔、顔。
「早くよくなるんだよ」
「神のおめぐみを・・・」
「必ずよくなるから安心しなさい」
すべての車両の 窓が開き
乗客たちが 身を乗り出した。
そして 連絡先を書いた紙に
ドル紙幣をはさんだものが
まるで 紙吹雪のように 彼女に投げられた
「うちの番地だよ、困ることや不自由なことがあったらすぐしらせなさい」
「私に電話して頂戴・・・」
「たずねて行くよ・・・さようなら」
彼女は涙で列車が見えなくなった
そのあと彼女はどうになったのか・・・・・
モンロビアの病院に入院して、3ヶ年、千日の余。
どこの馬の骨とも知れぬ、曾ての敵国の留学生は、
サナトリウム中で一ばん、訪問見舞客の多い「幸せな病人」であった。
その訪問見舞客はあの列車の乗客である
「あの列車の一乗客より」の名で、
クリスマスに、イースターに、
いくつのプレゼントが贈られたとか、
毎月の小包みのおかげで、
留学生はいつも新しいパジャマを着け、
歯ブラシ石鹸のたぐいを買う必要を全く持たなかった
彼女は「治療費は追って日本から送ってもらう」という約束で、
入院しましたが、
その治療費は高額でした。
ところが、彼女の知らないうちに、
彼女と同じ列車に乗っていた乗客の一人が、
匿名で治療費を支払っていたのでした。
彼女の名前は平成29年7月に96歳で
亡くなった作家・評論家・犬養道子さん。
五・一五事件で暗殺された犬養毅元首相の孫です。
この話は若いころ留学されていたときの実話です
戦後まもない時期に、戦争中は敵国だった国に留学し、
そこで重病になってしまった女学生が、どれだけ不安で孤独であったか。
同じ列車の乗客たちは、そのことを感じとり、
それぞれが自分にできる形で、彼女に励ましてたのですね。
病気が治って退院し犬養さんは、その後、作家、評論家になり、
70年代以降は飢餓、難民問題に精力的に取り組み、
世界の難民キャンプや紛争地に単身で赴いて活動。
私財を投じて難民に奨学金を支給する犬養基金を設立した。
全員優しい列車の乗客たちとの出会いが、
彼女の人生にもたらした影響は
大きかったのでがないでしょうか。