ハリー・トルーマンは人種差別主義者でした。
27歳だった1911年、
後に妻になるベスに宛てた手紙にこう書きました。
「叔父のウィルが言うには、神は砂で白人を作り、
泥でニガー(黒人の蔑称)を作り、残ったものを投げたら、
それが落ちて中国人になったそうです。
叔父は中国人とジャップが嫌いです。
私も嫌いです。たぶん人種的偏見でしょう。
しかし私は、ニガーはアフリカに、
黄色人種はアジアに、
白人はヨーロッパと米国にいるべきだと強く信じています」
2025/07/30 15:48
一人でも多くの方にお聞きいただきたいと強く願っております。
🟧戦後80周年 特別ZOOM講演
🟧教えられてこなかった歴史
~80年前にいったい何があったのか~
鈴木まさひろ
🟧8月14日(木)20時〜(アーカイブ付)
🟧参加代:2,500縁
🟧お申し込みはこちらから
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https://www.reservestock.jp/events/1065406
これほど残酷な人災があるだろうか。
これは人類に対する重罪と言える
~~ジョー・オダネル~~
報道写真家ジョー・オダネル撮影 「焼き場に立つ少年」 (1945年長崎の爆心地にて) 『佐世保から長崎に入った私は、 小高い丘の上から下を眺めていました。 すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。 男達は、 60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、 作業をしていました。 荷車に山積みにした死体を、 石灰の燃える穴の中に、 次々と入れていたのです。 10歳ぐらいの少年が、 歩いてくるのが目に留まりました。 おんぶひもをたすきにかけて、 幼子を背中に背負っています。 弟や妹をおんぶしたまま、 広っぱで遊んでいる子供の姿は、 当時の日本でよく目にする光景でした。 しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。 重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、 強い意志が感じられました。 しかも裸足です。 少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、 目を凝らして立ち尽くしています。 背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、 首を後ろにのけぞらせたままです。 少年は焼き場のふちに、 5分か10分、 立っていたでしょうか。 白いマスクの男達がおもむろに近づき、 ゆっくりとおんぶひもを解き始めました この時 私は、 背中の幼子が既に死んでいる事に、 初めて気付いたのです。 男達は、幼子の手と足を持つと、 ゆっくりと葬るように、 焼き場の熱い灰の上に横たえました。 まず幼い肉体が火に溶ける、 ジューという音がしました。 それから、 まばゆい程の炎が、 さっと舞い立ちました。 真っ赤な夕日のような炎は、 直立不動の少年のまだあどけない頬を、 赤く照らしました。 その時です。 炎を食い入るように見つめる少年の唇に、 血がにじんでいるのに気が付いたのは。 少年が、あまりきつく噛み締めている為、 唇の血は流れる事もなく、 ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。 夕日のような炎が静まると、 少年はくるりときびすを返し、 沈黙のまま、焼き場を去っていきました。』 撮影したのはアメリカ人カメラマン、ジョー・オダネル。 2007年8月9日、亡くなった。 占領軍として原爆投下後の長崎に入り、 その破壊力を記録するため写真を撮影する一方で、 軍に隠れ内密に自分のカメラでおよそ30枚の写真を記録した。 帰国後、被爆者の記憶に悩まされ、 悲劇を忘れ去ろうと全てのネガを 自宅屋根裏部屋のトランクの中に閉じこめ、 43年間封印してしまう。 しかし晩年になって 原爆の悲劇を訴え 母国アメリカの告発 に踏み切っていく。 原爆投下を信じる周囲から非難の声を浴びながら、 85歳の生涯を閉じた。 |
米国人は対日開戦の半世紀前の1890年まで
インディアンの虐殺を行っていました
1500万人以上の
ネイティブアメリカンが殺されたのです
約60,000,000頭もいたバイソンは
害獣として射殺、
娯楽としての射殺
アメリカ先住民を困らせるための射殺もおこない、
そらに
大規模な商業的な乱獲も加わり、
1,000頭以下にまで激減。
この写真は、
バイソンを殺して頭の骨を積み上げた写真
太平洋戦線の兵士たちは父や祖父から
虐殺の武勇伝を聞かされていたのです。
彼らにとって太平洋の島々は
「開拓」すべき「フロンティア」であり、
日本人はインディアンと同様、
絶滅の対象だったのです。
米国による残虐行為の最たるものが
東京大空襲や広島、長崎への原爆投下など
非戦闘員の大量虐殺です。
米国は戦争が始まるとユタ州の砂漠に
東京・下町の街並みを再現する日本家屋群を作り、
ちゃぶ台の上にはしと茶碗まで置いて、
焼夷弾の効果を確かめる実験を行いました。
そうして完成したのがM69という、
わが国を焼き尽くすための新型焼夷弾でした。
江戸時代の大火が春に集中していたことを
調べ上げ、1945(昭和20)年3月10日を
東京大空襲決行の日に選びました。
東京大空襲の約1カ月後の4月12日、
わが国を戦争に追い込んだ米大統領ルーズベルトが死去し
後任に副大統領のハリー・トルーマンが就任しました。
このトルーマンが
8月6日に広島に、9日に長崎に
原爆を投下した大統領になります。
わが国の一部には
「日本が侵略戦争を行い、
ポツダム宣言を黙殺したから
原爆を落とされた」
という原爆容認論があります。
広島の原爆死没者慰霊碑には
「過ちは繰返しませぬから」と刻まれ、
修学旅行でやってきた児童・生徒が
「自分たちの祖先が悪かったから
原爆を落とされたんだ」
と反省しています。
ハリー・トルーマンは人種差別主義者でした。
27歳だった1911年、
後に妻になるベスに宛てた手紙にこう書きました。
「叔父のウィルが言うには、神は砂で白人を作り、
泥でニガー(黒人の蔑称)を作り、残ったものを投げたら、
それが落ちて中国人になったそうです。
叔父は中国人とジャップが嫌いです。
私も嫌いです。たぶん人種的偏見でしょう。
しかし私は、ニガーはアフリカに、
黄色人種はアジアに、
白人はヨーロッパと米国にいるべきだと強く信じています」
原爆投下を受けて、
全米キリスト教会連邦協議会のサミュエル・カバート事務総長は
ハリー・トルーマンに
「多くのキリスト教徒が動揺している。
それが無差別破壊だからだ」
と電報を送りましたが、
トルーマンはこう返信しました。
「獣を相手にするとき、
あなたはそれを獣として扱わなければならない。
大変残念だが、それでも真実だ」
トルーマンは戦後も
「後悔していない」
「全く心が痛まない」と
繰り返し語りました。
1958年のCBSの番組で、
ハリー・トルーマンに
「原爆投下は
道義上の問題があるので
決定は難しかったのではないか」
と問われると、
「とんでもない。こんな調子で決めたよ」と、
ボーイを呼ぶように
指をパチンと鳴らしました。